湯灌の風習と現在
湯灌は、日本の地で育まれた古来よりの精神と、渡来してきた儀式が融合して、死者を送るための風習として日本の各地に深く根ざしておりました。
納棺に先立ってご遺体を清める湯灌の風習は、汚(穢)れを落とす他に、死者の霊魂を復活させるという呪術的な意味があったとも言われております。
現代では、ほとんどの方が病院で亡くなるため、アルコールで身体を拭くことを湯灌と呼ぶ場合もあります。
江戸時代の湯灌
湯灌を行うに際して、江戸時代には地方によって多様な風習や作法がありました。
たらいに水をはっておき、そこに湯を入れる「逆さ水」や柄杓ややかんを左手に持つ「左びしゃく」、湯灌に使用する水を汲みに出かけた者を必ず誰かが後から呼びに行く「声かけ水」や、近親者が裸になり縄帯・縄襷で洗う作法、使い終わった湯は、日の当たらない床の下や藪かげ、あるいは土に穴を掘って捨てるといった作法など、その他にも様々な風習などがありました。
死者には湯灌のあとで経帷子(きょうかたびら)を着せました。経帷子は、白麻や白木綿の着物で、近親の女性が共同で仕立て、糸のシリは止めないしきたりでした。
これを左前に着せて帯をし、手甲や足袋・脚半を着け、頭陀袋には五穀や六文銭(六道銭、三途の川の渡し賃)を入れます。
当時、地主や家持でない者は、自宅で湯灌をすることが禁じられていたため、「湯灌場」(ゆかんば)という寺の一画に設けられた湯灌をするための場所で行っておりました。
さらに、その湯灌場を回り死者の衣服を買い集める業者を「湯灌場買」(ゆかんばがい)と言いました。
湯灌の始まり
『日本書紀』には「天皇(すめらみこと)、乃ち沐浴(ゆかはあみ)齋戒(ものいみ)して、殿(みあらか)の内を潔淨(きよまは)りて」、「沐浴齊戒して、各(おのおの)盟神探湯(くかたち)せよ」と記されております。
身を斎(い)み浄めるための「沐浴(斎川浴)」は「ゆかわあみ」と読まれており、転じて「湯灌」(ゆかん)となったとの説があります。
古代インドにおいて、国王の即位式の際、海の水を集めて頭頂に灌(そそ)いだ灌頂(かんじょう)の儀式が、仏教界でも出家の儀式などとして行われるようになり、中国を経て日本へ伝えられました。
日本では、最澄が高雄山寺で初めて灌頂を行い、空海が本格的に灌頂の儀式を始めました。
また、江戸時代末期まで、天皇の即位式には「即位灌頂」という儀式が行われておりました。
真言宗では入棺の際にも灌頂の儀式が行われており、それが葬儀の際に行われる湯灌の始まりであるとも伝えられております。